仲哀天皇古墳の行き方【地図あり】|岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)

仲哀天皇陵古墳はこんなです!!

仲哀天皇陵古墳は、正式には、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)と言い、その古墳名の「岡」は地名で、「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛ということです。

 

宮内庁により「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ、惠我長野西陵)」として第14代仲哀天皇の陵に治定されている古墳です。

 

第14代の仲哀天皇は、あのヤマトタケル(日本武尊)の子供で、僕が古墳や神社仏閣に興味を持つようになった応神天皇の父上で、第二婦人がその応神天皇の母の神功皇后になります。

 

ただし、実在性に関しては、子供とされる応神天皇から高くなってますが、仲哀天皇に関しては、お父さんが神話のヤマトタケル>>で、その実在性についてはクエスチョンマークがついています。

 

仲哀天皇古墳の行き方【地図あり】|岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)

 

 

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仲哀天皇って本当にいたの?

 

第14代の仲哀天皇は、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いたそうです。

 

天皇は神懸りした皇后から託宣を受けるのですが、その内容は、「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だったそうです。

 

それ本当かな?ってことで、高い丘に登って大海を望んでみたそうですが、国など見えないと。さらに、それまでも歴代の天皇があらゆる神を祀っていたというのに未だ祀っていない神がいるって話も眉唾だなっと考えるわけです。

 

そこで仲哀天皇は神が偽物ではないかと疑うわけです。

 

それでも尚、皇后に神がかかり「天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣したそうです。

 

もう内容に不信感をもっているわけですから、皇后が演じる神を信じられない天皇はそんなことは無視して熊襲を攻めたもわけですが、空しく敗走したそうです。

 

その翌年2月に天皇は急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされていたそうです。その遺体は武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って豊浦宮(現下関市)で殯されたそうです。

 

仲哀天皇古墳の行き方【地図あり】|岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)

 

なんか、難しい話になってきましたが、そもそも奥さんの神功皇后自体が、サスペンスに溢れているので、そりゃいろいろ本当か?ってお話が出てきます。

 

そもそも応神天皇が産まれたのも仲哀天皇がなくなって、その後、神功皇后が、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗などの三韓征伐をして九州に戻った10ヶ月してからですからね。誰の子?だってなりますわな。

 

また、応神天皇は、神功皇后摂政3年に幼子で太子になったわけですが、母の神功皇后がなくなるまで、応神天皇が71歳で即位するまでは、ずーっと母の神功皇后が摂政したわけです。

 

しかも、その神功皇后は仲哀天皇の二番目の奥さんで、一番目の奥さんには男の子が二人いて後継争いに勝っているわけですから、相当なサスペンスが想像できるわけです。

 

そのあたりは、仲哀天皇の事から離れてしまうので、ご興味のあるかたは一度お調べになってください。なかなかのドラマを感じると思います。

 

岡ミンザイ古墳の規模や詳細

 

こちらの古墳は、4世紀後半から5世紀後半に造られたと考えられており、その形は、前方後円墳で古市古墳群では西野端に位置する古墳になります。

 

古墳の規模としては、墳丘長は245メートルで、後円部の高さは19.5メートルで、古市古墳群では応神天皇陵古墳>>・仲津山古墳に次ぐ第3位、全国では第16位の規模の古墳になります。

 

この古墳は以前ご紹介した同じ藤井寺市にある津堂城山古墳>>と同じく、室町時代に城が築城されていたため、墳丘の上面は一部の形が変わってしまっている古墳でもあり、墳丘の姿としては、元は3段築成と見られていますが、修陵の際に5段に改変されたようだという事です。

 

さらにこの古墳の墳丘周囲には幅広の周濠(主軸線上で幅50メートル)が巡らされているほか、その外側には埴輪列を有する周堤(幅20メートル)が巡らされています。

 

仲哀天皇古墳の行き方【地図あり】|岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)

 

古墳は堀があってお城として居抜きするには最適な地形になっていますから、お墓だという事の意識があるのかないのかは別にしても、お城の環境としては、とても理に適っていて、ある意味、そういう利用をされてきた事は、仕方ないのかもですね。

 

また、当時は、堤の上に円筒埴輪が並べられていたと推測されています。実際、墳丘や濠からは、円筒埴輪、形象埴輪(家形・盾形・靫形・蓋形・人物埴輪)が出土しているそうです。

 

この古墳は、それまでの古墳とは一線を画すところがあり、それは、葺石の停止および横穴式石室の新規導入がなされている点だそうです。

 

  • 墳丘長:245メートル
  • 後円部 - 3段築成
  • 直径:150メートル
  • 高さ:20メートル
  • 前方部 - 3段築成
  • 幅:180メートル
  • 高さ:16.6メートル

 

因みに、この古墳の埋葬者は、別の説もあり、その古墳の真の被葬者というのが、実は、第21代雄略天皇や、同天皇と同一視される倭王武に比定する説もあるそうです。

 

岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇惠我長野西陵)への行き方

 

【地図】

 

【住所】〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目

 

【最寄駅からのアクセス】
近鉄南大阪線「藤井寺」駅 南へ徒歩15分程度です。

 

 

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